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愛甲三郎館跡道標
Tel 046-225-2141(市民協働推進課) 046-225-2515(あつぎ郷土博物館)


弓の達人 愛甲三郎季隆
愛甲三郎季隆が、初めて歴史上に登場するのは治承4年(1180年)12月20日の『吾妻鏡』の記載です。源頼朝の鎌倉の邸宅が完成し、その祝膳が催された折に、急遽弓始めの儀式が行われました。京都の弓の上手な武士に対する形で、関東武士の弓の名手の1人として愛甲三郎季隆が登場します。愛甲三郎季隆は、武蔵国多摩郡(現在の八王子の付近)を本拠地として、強大な勢力を持っていた武士団横山党の一族である山口季兼の子で、愛甲荘を領地としていたことから愛甲氏を名乗りました。
源頼朝に仕えた郷土の英雄
愛甲三郎季隆は、頼朝の調度懸(ちょうどがけ)(儀式の際弓矢を持って供奉する役)を勤めるなど、射芸により仕えている様子がうかがえます。また、実戦では、元久2年(1205年)に初代執権の北条時政が、畠山重忠、重保親子を追討した際、畠山重忠の首を取ったとされています。その後、建暦3年(1213年)、鎌倉幕府の有力御家人の和田義盛の反乱(和田合戦)の際には、和田方に味方します。その戦いで和田方が大敗し、愛甲三郎季隆は戦死したため、愛甲氏は没落していきます。しかし、室町時代以降も弓の達者な愛甲三郎季隆の話は語り継がれていきます。
愛甲三郎関連史跡
愛甲荘において、愛甲氏の居館であったと伝えられている場所は、愛甲字御屋敷添の上愛甲自治会館のあたりです。現在は、地元の方の御協力の元、道標が設置されています。また、その北側にある宝積寺(ほうしゃくじ)には、季隆の墓碑と伝えられている五輪塔があります。さらに、円光寺の境内にも墓碑と伝えられている、鎌倉時代末の形式を持つ関東式の宝篋印塔(ほうきょういんとう)があります。円光寺の本尊と脇侍は愛甲三郎の守護仏と伝えられています。
愛甲三郎の伝承
玉川野球場の北側にも、愛甲三郎に関係のある道標が設置されています。源頼朝に愛された丹後の局という美しい女性がいました。丹後の局は頼朝の子どもを妊娠し、その安産祈願のために日向薬師にお参りをしました。この時案内役を勤めたのが愛甲三郎でした。三郎が日向薬師に出かけている間に、頼朝の正妻である北条政子が、一千騎の軍で愛甲氏の館を焼き討ちしました。その急報を聞いた愛甲三郎は北条方から心が離れてしまいました。焼き討ちの報を聞いた場所をのちに「縁切り橋」と呼ぶようになったと伝えられています。
頼朝公富士之御狩図
この錦絵は「曽我物語」に関連したもので、源頼朝が建久4年(1193年)5月16日から28日にかけて富士で大規模な巻狩りを行いました。その最終日の28日の様子を描いたものです。愛甲三郎季隆も3枚目の左下に描かれています。この作品はあつぎ郷土博物館で所蔵しています。
名称 | 愛甲三郎館跡道標 |
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ジャンル | 見どころ(歴史) |
住所 | 〒243-0028 厚木市愛甲西3丁目4 |
問い合わせ先 |
【道標についての問い合わせ】 【歴史についての問い合わせ】 |
交通手段 | 【車】 東名厚木ICから約10分(2.9km) 新東名伊勢原大山ICから約15分(7.2km) 【公共交通(バス・徒歩)】 愛甲石田駅3番バス乗り場から愛名・愛甲原住宅行きバス、「愛甲橋」下車徒歩約5分 |
駐車場 | なし |
地図
円光寺
宝積寺